創設者:上田眞一氏のプロフィール
生年月日:昭和31(1956)年生まれ。水瓶座。血液型:O型 | |
地元の小中学校を経て、大阪府立H高校を卒業後、就職。 昭和50年に太子町少年サッカークラブを創設。 |
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私とサッカー | |
小学校時代は、「大鵬・卵焼き・巨人」であり、プロレスでは力道山、相撲では大鵬、野球は、王や長嶋の時代でした。そんな中で遊びといえば野球、野球といえばスポーツというように草野球ばかりを楽しんでいました。 そのようなときに、1968年のメキシコオリンピックで日本が銅メダルを獲得したときサッカーというものを知り、初めてサッカーをしたときにこんな面白いスポーツはないとサッカーに目覚めました。 その2年後、1970年にメキシコワールドカップがあり、ペレを擁するブラジルが3回目の優勝をし、ジュールリメ杯を永久保持となりました。この時代には、ペレ・トスタン・リベリーノ・ジャイルジーニョ・ウベゼーラー・ミュラー・オベラート・フォクツ・ベッケンバワー・アランポール・バンクスなど、個性豊かな選手が集まっており、私にとっては、ドリームカップであり、サッカーを真の芸術に発展させたワールドカップであると今でも思っています。又、テレビは、三菱ダイヤモンドサッカーをいつも観ていました。 私が中学3年のときにサッカー部が創設され、それからは、ずっとサッカーをし、いつの間にか遊びはサッカー、サッカー=スポーツになりました。 |
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高校は、新設高校であり、1期生でした。 高校3年の時に、K先生が本高校に赴任され、サッカー部の顧問となり、益々サッカーにのめり込みました。 |
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高校卒業後、就職し、昭和50年に地元の小学生を対象にサッカー教室を始めたのを契機に太子町少年サッカークラブを創設しました。 その後、K先生の紹介で、コーチングリーダー(現在のコーチングスクールの前身)に通い、そこでセルジオ越後が臨時講師として来られ、サッカーに対する考え方などが大きく変わりました。 |
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受難の時代 | |
私も若かったこともあり、指導よりも「自分がもっとサッカーが巧くなりたい。」「一生選手として頑張りたい。」などの野心がありました。又、こどもに対しては、叱ってばかりいました。そんな野心などがこどもには感じたのでしょう。その結果、クラブ員が3名という最悪の事態になりました。 この時に、クラブを廃部していれば、今のサッカークラブは存在しなかったし、私も違う人生を歩んでいて、現在の私も存在しなかったでしょう。 その後、サッカーに対する私自身の整理をし、又、考え方も改めることにより、部員も増え始めましたが、1学年で1チームというチーム構成はできませんでした。 |
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幕開の時代 | |
平成3年に太子町に一大転機が訪れました。それは、私たちスポーツを愛好する者にとって、喜ばしい出来事でした。そう、太子町に総合スポーツ公園総合グランドが完成したのです。 もうひとつは、総合グランドが完成されたことにより、大阪府知事杯選手権中央大会や全日本大阪府大会中央大会の会場に誘致することができました。これは、私にとっては、こどもたちのワールドカップ会場誘致であると同時に知られなかった太子町が大阪府の中でも知られることになった一因だと自負しております。 |
サッカーの歴史
全世界を魅了するサッカー!サッカーの魅力はいったい何なのか?又、あらゆるスポーツには、歴史があります。それでは、サッカーの歴史とは?このことについて、私の私見も交えてここに掲載します。
中世の英国で始まったといわれる現代のサッカー。しかし、サッカーによく似たスポーツは、世界各地で大昔からあったとされている。 | |
例えば、古代の中国においては、「蹴鞠(スーキー)」と呼ばれる球技があった。北アメリカでは、インディアンが部族の名誉をかけて、2本の立ち木の間にボールを蹴りこんでいた。南アメリカでは、ゴム製のボールを使い、そのボールを空中では手を扱うことは許されず、ひざだけでボールを扱うルールで、ボールを地面に落としたり、ひざ以外の身体の部分で扱うことは禁止されていた。 |
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それでは、中世の英国ではどんなサッカーをしていたのだろうか? | |
19世紀前半には、英国の学校では、現在のラグビーとサッカーをミックスしたような競技が行われていた。この競技は、ボールを蹴ることと手でつかむことができた。しかし、選手の人数は決まっていなくて、グランドの大きさによって人数を増やしたり減らしたりしていたし、はっきりとしたゴールもなかった。 又、ルールは、学校によって違っていたので、対抗ゲームのときは、どちらかの学校のルールで行われていた。 |
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その後、1862年にルールの統一を試みており、そのルールは、以下のようなものだった。 | |
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このルールは、学生たちに受け入れられ、いくつかの学校が採用した。 | |
その1年後の1863年に、フットボール協会(The Football Association)を設立し、ルールなどを定めた。この協会ルールによるフットボールをAssociation Footballと呼ばれている。サッカーの語源は、ここから作られている。最初のAsを取り、SOCとし、さらにCERをつけて、SOCCERという俗語となった。 | |
その後、英国で始まったサッカーが、瞬く間に世界に広まっていった。(これは、当時の英国は、世界中に植民地を持っていたためだと思われる。) |
全世界を魅了するサッカー!サッカーの魅力はいったい何なのか?又、あらゆるスポーツには、歴史があります。それでは、サッカーの歴史とは?このことについて、私の私見も交えてここに掲載します。
ワールドカップは、1930年にウルグアイで第1回大会が開催され、その後4年ごとに開催されている。以下は、過去のワールドカップの開催国と優勝国及び準優勝国をまとめた。
大会 | 開催国 | 開催年 | 優勝国 | 準優勝国 |
第1回 | ウルグアイ | 1930 | ウルグアイ | アルゼンチン |
第2回 | イタリア | 1934 | イタリア | チェコスロバキア |
第3回 | フランス | 1938 | イタリア | ハンガリー |
第4回 | ブラジル | 1950 | ウルグアイ | ブラジル |
第5回 | スイス | 1954 | 西ドイツ | ハンガリー |
第6回 | スウェーデン | 1958 | ブラジル | スウェーデン |
第7回 | チリ | 1962 | ブラジル | チェコスロバキア |
第8回 | イングランド | 1966 | イングランド | 西ドイツ |
第9回 | メキシコ | 1970 | ブラジル | イタリア |
第10回 | 西ドイツ | 1974 | 西ドイツ | オランダ |
第11回 | アルゼンチン | 1978 | アルゼンチン | オランダ |
第12回 | スペイン | 1982 | イタリア | 西ドイツ |
第13回 | メキシコ | 1986 | アルゼンチン | 西ドイツ |
第14回 | イタリア | 1990 | 西ドイツ | アルゼンチン |
第15回 | アメリカ | 1994 | ブラジル | イタリア |
第16回 | フランス | 1998 | フランス | ブラジル |
第17回 | 韓国・日本 | 2002 | ブラジル | ドイツ |
この中で、興味深いのが、第1回ワールドカップの開催地がサッカーの母国イングランドではなく、ウルグアイであったということである。これは、イングランドがFIFAに加盟し、大会に参加したのが第4回大会からであるということと、元々イングランド自体がFIFAを認めていなかったことと思われる。 |
過去のワールドカップで私が、一番印象に残っているのは1970年にメキシコで開催された第9回ワールドカップである。(最も第8回までは、観ていなかったが)
この大会は、数々の名勝負が生まれおり、私が印象に残ったゲームは、次のとおりである。 | ||
準々決勝:西ドイツ対イングランド | ||
(3対2) | 後半の30分ごろまで、イングランドはマレリーとピータースの得点で2対0とリードしており、誰もがイングランドの勝利を疑わなかった。イングランドの監督ラムゼーもそう信じていたのであろう。攻守の要であるボビーチャールトンをベンチに引っ込めた。その直後、西ドイツの猛反撃が始まった。そして、西ドイツのベッケンバウアーが1点を返し、その後闘将ウベゼーラーが1点を追加し、同点。その後延長に突入し、爆撃機ゲルトミュラーが決勝ゴールを決め、西ドイツの逆転勝利となり、次の準決勝へ駒を進めた。 | |
準決勝:イタリア対西ドイツ | ||
(4対3) | カテナチオでディフェンスを固めたイタリアが前半8分にボニンセーニャが西ドイツのディフェンス陣のすきをついて、1点を決めた。その後西ドイツが攻撃を繰り返すもののイタリアの固いディフェンスを崩すことができなかった。しかし、後半の終了間際、西ドイツのシュネリンガーが1点を返し、1対1とし、延長戦にもつれ込んだ。 そして、延長の前半、先に点を取ったのは、西ドイツ。ミュラーのゴールでリードを奪った。が、その後すぐにイタリアのブルニチが同点とし、延長前半終了前にイタリアのリーバが1点を追加し、イタリアがリード。延長後半には、西ドイツのミュラーが1点を返し、再び同点とした。そして、このゲームに決着をつけたのがイタリアのリベラ。リベラが1点を奪い、イタリアを勝利に導いた。 |
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決勝:ブラジル対イタリア | ||
(4対1) | ブラジル及びイタリアは、どちらも過去2回ワールドカップの優勝を経験しており、どちらもチームも、今回、優勝すれば、ジュール・リメカップは、永久保持となるため、スタンドには10万人を超える観客が押し寄せた。 決勝戦は、ブラジルのファンタスティックなゲームで幕を閉じた。 前半には、左スローインからブラジルがボールをゴール前に送り、ペレのヘディングシュートで先制点。イタリアは、ボニンセーニャがブラジルのミスをついて同点とした。 後半に入るとブラジルはすばらしい攻撃的なサッカーを見せた。ジェルソンがシュートして、2点目をゲット。その後ジャイルジーニョが3点目を、そしてカルロス・アルベルトが4点目をゲットし、ブラジルが3度目の優勝を飾り、ジュール・リメ・カップを永久保持国となった。 しかも、ブラジルは、今大会1次リーグ及び決勝トーナメントを通じて、引き分け若しくは負けのない完全優勝であった。 |